サン=フェリペ号事件に関してしばしば「積荷を没収された腹いせに、スペイン人船員(時には航海長のデ・オランディアの言葉とされる)が、『スペインは領土征服の第一歩として宣教師を送り込む』といったことが秀吉を激怒させ、二十六聖人殉教を引き起こした」といわれることがあるが、このような「発言」は1598年に長崎でイエズス会員たちが行った「サン=フェリペ号事件」の顛末および「二十六聖人殉教」の原因調査のための査問会で、証人の言葉として出たとされるもので、日本側の記録には一切残されておらず、その真偽は定かではない。[3]。また、上記のように当時の海上慣習にも生存者のある難破船の積荷を勝手に没収できる慣習はなく、秀吉が「特別な理由」をもって積荷の没収を命じたこと、スペイン側がその「理由」を「秀吉がスペインに武力侵攻の意図ありと考えた」ことと見たことからすると、俗に言われる「積荷を没収された腹いせ」云々の流れが本末転倒であることがうかがえる。
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二十六聖人殉教は、サン=フェリペ号事件が直接的に引き起こしたという単純なものではなく、都周辺での活動を自粛していたイエズス会に対して、新進のスペイン系修道会フランシスコ会やアウグスティノ会が活発に活動をしていたことが秀吉の目についたこと、イエズス会とそれらの托鉢修道会の間にも意見の相違や相克があったこと、事件当時の秀吉が明の冊封使の対応に忙殺されていたこと、呂宋国(フィリピン)との外交関係に関して秀吉に明確なビジョンがなかったことなど多くの原因が複合して起こったものと考えられている。